近代日本の発展を象徴する歴史的建造物である兵庫県公館の魅力をご紹介します。
古来より要港であった兵庫津
長い鎖国の終わりを告げたのは、江戸時代の終わりに来たペリーでした。皆さんもよくご存じのペリー来航です。一気に開国へと転換していく中、日米修好通商条約を締結し、その条約の中で神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港が取り決められました。
開港の地には居留地が設けられ、外国人が居留地に住み、自由に貿易を行うことができることと定められました。この条約の中で開港場は兵庫となっていました。
和田岬を隔てた兵庫津は大輪田泊りと言われ、古来より要港として知られていました。豊臣秀吉時代には全国統一のための軍港とされ、江戸時代には西回り航路の北前船の発着場として活気を帯び、街は商人が行きかい、とても栄えていました。
そして鎖国から一気に開国へと転換した日本政府は神戸に居留地を置き、神戸港を活性化させていきます。外貨獲得が急務だった日本政府にとっては但馬で生産した生糸を輸出する港が必要だったからでした。
明治以降、居留地が設けられた神戸付近はいち早く欧米の生活様式が取り入れられ、文明開化の洗礼を受けていき、国際貿易都市として発展していくことになります。
そのような時代背景から、神戸付近には様々な様式の異国情緒漂う洋館が建っていき、街を形成していきます。兵庫県公館もその時代の変遷に合わせて作られた、歴史的にも重要な建築物でありました。
異彩を放つ建築家 山口半六
兵庫県公館は港を見下ろす高台、兵庫県庁のそばに建っています。当初は高いビルなどがない地域で、遠くまで港の様子がよく見えたと思われます。兵庫県公館が作られたのは、明治35年(1902年)でした。この年は日英同盟が結ばれ、2年後の日露戦争を控え、三港町神戸の役割がとても大きな位置を占めるという時代でもありました。
兵庫県公館を設計したのは、山口半六という明治時代を代表する建築家で、文部省在籍時に学校建築を多く手掛けている人物でした。
文部省在籍時に派遣留学生として渡仏した山口半六は、明治12年パリの中央工業専門学校を卒業します。その後帰国し、文部省に入り辞職するまでの間、新学制によって大量に必要になった学校建築の設計を務めました。主な仕事は旧制の一高から五高までの校舎や東京音楽学校校舎などがあり、辞職してからは関西で活躍をしました兵庫県公館は山口半六の晩年の作品でした。山口の作品は欧米仕込みの作風でイギリスが主流であった当時の日本の建築界の中では異彩を放っていました。また大阪市からも都市計画を委嘱されるなど、日本の近代都市計画の先駆者としても知られています。
国の登録文化財に
兵庫県公館は中庭を配置する回廊式のルネサンス建築で、シンメトリーの外観が豪華で壮麗な様相を表しています。当時は兵庫県庁舎として使用されており、竣工時では日本最大級の庁舎建築でもありました。明治維新を経て、神戸の港を開港したことにより発展していった港町の繁栄ぶりがうかがえる建築でもあります。
1983年(昭和58年)まで県庁庁舎として使用されていましたが、その後、外装及び内装を創建当時の姿へ細部まで復元し竣工時の姿を取り戻します。創建当初から残るものは外壁のみになっていますが、その歴史的な価値の高さから国の登録文化財に登録されています。
公館内の意匠は県の花であるのじぎくがモチーフとされたシャンデリアや絨毯などがひかれた迎賓施設や、3階の回廊廻りに配置された各部屋には、重厚感あふれる木材がふんだんに使われているインテリアになっています。
圧巻なのは公館内に配置されている美術品です。兵庫県とゆかりのある小磯良平や東山魁夷、横尾忠則などの作品が多数展示されており、公館全体が美術館や博物館としての要素を併せ持つ構成となっています。毎週土曜日は、公館が開放され迎賓施設も見学できるようになっています。
概要:兵庫県公館
設計:山口半六
着工:1899年
竣工:1902年
住所:〒650-0011 兵庫県神戸市中央区下山手通4丁目4番1号