ニュース番組の資料映像などで時折目にする国連本部ビル。誰もがテレビなどで見たことがあると思いますが、建築物としての魅力が語られることはほとんどありません。
世界一有名な高層ビルと言っても過言ではありませんが、その設計者やデザインの決定プロセスはあまり知られていないかもしれません。
じつはこの「国連ビル」には戦後建築史に大きな影響を与えた数々の高名な建築家たちが関わっていたことをご存知だったでしょうか?
国連ビルの歴史・基本情報
国際連合が正式に発足した1945年9月から1年と少し後、1946年の末ごろに国連は本部をニューヨークに置くことを決定。本部のための建築物のデザインはコンペなどによらず各国から一流とされる建築家を集めた「建築家国際委員会」が担当することが決定されました。
同委員会は1947年より設計業務に取り掛かり、敷地内に必要とされるオフィスビルや議事堂などを含めた複数の建物のデザインや配置が検討されました。そして最終的に決定したプランをもとに1949年、国連本部ビルが着工します。
どんなメンツが設計に参加したか
招集されたのはアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国、スウェーデン、ブラジルなどのいわゆる戦勝国を中心とした国々からの建築家たちでした。
高層ビル設計を得意とするアメリカ人建築家ウォレス・K・ハリソンを委員長に置き、フランスからはル・コルビュジエ、ブラジルからはコルビュジエの弟子でカリスマとも称されるオスカー・ニーマイヤー、中国からは梁思成といった錚々たるメンツが集合し約50ほどの基本デザインを作成、検討したと言われています。
最終的に委員会はコルビュジエ案とニーマイヤー案を基本とした言わば折衷案を採用することを決定して解散、実務はアメリカ代表のハリソンが引き継ぐこととなったのですが、採用された基本案からは幾分改変され、コルビュジエらしさのほとんどない、ガラス張りでいかにも摩天楼風な現在の姿となりました。
ニューヨークとコルビュジエの思惑
実はコルビュジエは建築家として一つ一つの建物よりも都市全体を設計することに情熱を燃やしていたようです。基本的に彼の理想の都市イメージはビルを高層化して地上にオープンスペースを増やし、交通や緑地にまつわる都市特有の問題を解決するというものでした。もしかすると、これから世界の中心になるであろう1940年台のニューヨークに、国連ビルを通して自らの長年の理想を実現させようと目論んでいたのかもしれません。
そのためか自分の案がいいように作り変えられたと考えたコルビュジエは激怒。ちょっと大人げないほどにハリソンを批判していたそうです。
かくして世界の名だたる建築家が11人も集められながら、コルビュジエっぽくもなくニーマイヤーらしさもない、建築物としての価値が語られることのほとんど無い、あのちょと無愛想なビルが完成したわけです。
さらに、当初は国連加盟国の数を70国程度として設計されていたため、加盟国が増えてゆくに連れて国連ビルはどんどん手狭に。発足当初は51カ国でスタートした国連も今や加盟国は200カ国に近づいており、加盟国の増加に合わせて何度も増築を繰り返してきたため、1949年当初のプランとは大きく異なるものになってしまっているかもしれません。
もし訪れる機会があればここをチェック
計画の段階から、各国が協調するのがいかに困難かを皮肉にも予表していたような国連ビルですが、見どころもちゃんとあります。
各建築家のアイデアも完全に消え去ってしまったわけではないので、見学することがあるならどこに誰のアイデアが活きているか、探しながら歩くのも面白いかもしれません。たとえば、敷地内の建物の配置などの妙により、そう広くはない敷地にもきちんと緑地が確保されているのはコルビュジエのアイデアが活かされているからかもしれません。
また、設計には全く関われなかった日本ですが、国連本部ビルの敷地内には日本国際連合協会が寄贈した「平和の鐘」が日本建築風の東屋の中に設置されています。せっかくなので見ておくのはいかがでしょうか。